ホピ丸十字とキリスト意識-3-

次に、ヨーロッパ精神史研究所の小林直生さんとのお話の内容を振り返り、まとめながらここに書いておきたいと思います。

まず、小林さんが司祭として30年務められたキリスト者共同体とは、プロテスタント教会の牧師により、キリスト教の刷新がルドルフ・シュタイナーに請われ、1922年に創立されたキリスト的教会だという。信仰を前提とせず、教義やドグマに縛られることがなく、全世界で5万人の信徒(といっていいのかな)がおられるそうだ。

「神に委ねる」と小林さんは仰った。「神に委ねる。それは息を引き取る1秒前でもそれができればよいのです」と。

起こるがままに任せる、ということだろうか。時計時間でことを運ぶのではない、「インディアンタイム」を想起した。これまでの人生の中で、人智を超えた計らいでなければ、目の前に起こり得ないと思われる、大小さまざまな出来事の重なりがあり、ここまできたと思う。好き嫌いもあれば、どちらを選ぶか選択もできる。絶体絶命であっても、私たちには自由意思が許されている。起こることをどう捉え、どう言動に変えるかは、私たちに任されているのだね、、、あら、このまま書くと、文脈からす外れていきそうなので、先へ進もう。いかん、いかん。

ポーランドで42年間続いてきたというアメリカインディアンフェスティバルで出会ったヨーロッパ出身の男性は、見事なインディアンビーズワークのアーチストだった。彼は、キリスト教国に生れ育ったが、馴染まなかった。「何故、神の聖名のもとで、戦争をするんだい?」そして、彼が出会ったのが、アメリカインディアンだった。「宗教じゃないんだ、Way of Life -生き方-なんだ」

小林さんは、この私の話に応答して、転生について、お話しくださった。
酷い目に遭ったり、憎しみを持った対象の地に、その魂は生まれ変わる、とシュタイナーは説いており、アメリカインディアンの多くが、ヨーロッパで転生しているというのだ。さらに、20世紀の初めから今に至るまで、アメリカ大陸に転生している魂は東洋人らしい。私は、42年間もポーランドでアメリカインディアンフェスティバルが続いてきたことの背景の一端が理解できる気がした。

ポーランドも非常に印象深い国だった。このフェスティバルの他に、ナチス政権下での虐殺収容所アウシュビッツ・ビルケナウの見学、そして、やはり虐殺を受けたロマ(いわゆるジプシー)の慰霊のためのキャンプ、ロマ・ホロコースト・キャンプにも参加した。この旅へと導いてくれたMagdalena(そう、マリア・マグダレーナ!!)や彼女の友人たちから感じ取れた、口にしたこと、約束したことを違えずやり通す誠実さと不屈な精神は、苦難の道を強いられてきた、現在はポーランドと呼ばれる国、民族が歴史の中、あるいは転生した魂によって培われたものかもしれない。
ああ、ポーランド訪問だけで1章になってしまう。先に進む。

フランスとスペインの境となる大ピレネー山脈の北側、山間に位置するモンセギュールでは、ローマカトリックの意に添わないカタリ派信徒200名が、差し向けられたアルビジョワ十字軍によって殲滅されたという。1200年初頭のこと。その上、カタリ派信徒を引き渡さなかった集落全員までもが火刑に処せられた(自ら殉じたといわれている)。そのモンセギュールのシールドシンボルは女性の子宮を表す聖杯と聖十字であった。その聖十字は、ホピの女性のシンボルと酷似している。

黒いマリアさまのモンセラートで出会ったホピ丸十字
黒いマリアさまのモンセラートで出会ったホピ丸十字

宗教の名において正義が振りかざされるとき、血が流れる、という小林さんのお話には充分にうなづけた。宗教、教会という名のもと、どれだけの血が流されたであろうか。41日間の旅で5か国を巡ったが、訪ねた街々で必ず出会ったもの、それがキリスト教会だった。高い塔とゴーン、ゴーンと響き渡る鐘の音。小さな田舎の集落ともなれば、教会がその集落の中心を成していることはたやすく分かる。
教会が町の中心ともなっている社会と歴史の重みの中では、ある者にとっては、精神の自由という点においても、どれほど苦痛と不自由さをもたらしただろうか。いま、ヨーロッパのことに若者の中で、教会離れが進んでいるという。それは、旅の中でも感じたことだった。

2015年4月ワシントンDCの国会議事堂の前に立っていた。ちょうど、安倍首相がアメリカの国会で日本の首相として始めて演説するという日で、抗議と平和祈念のためだった。その時、議事堂のてっぺんに何か立っているのに気付き、何かと調べてみたら、なんと正義の女神像だというではないか。
アメリカという国は、先住民とその文化を根こそぎ殲滅しようとし、大地を奪い聖地を破壊し続け、黒人を奴隷化して成立させたといってよい国家と思うが、それらはみな、神の聖名のもと、悪、野蛮人を成敗する、と正義を振りかざすことによって正当化された。いや、正当化しようとした。ヨーロッパでのキリスト教という人間が作り出した枠組により生じた軋轢、矛盾、痛みが、そのまま、南北アメリカ大陸に持ち込まれ、アメリカ先住民の悲劇がもたらされたのではないだろうかと、そう思わずにいられなない。

小林さんの話は続く、I like you. と I love you.の違いは、と。


I like you
自分と同じだからあなたを受け入れる

I love you
違っているという前提で、あなたを受け入れる


この世界は多様性に満ちている。風のそよぎ、水面のさざ波ひとつとっても、何ひとつ同じ瞬間はない。そのことにいつも感動する。ひとつの種は、同じ歌を歌い続けることにも感動するが、大いなる存在の計らいにより、多種多様な種が存在している。多様で違っているからこそ生かされ合い、生き延び、いのちが保たれるように計らわれている。自然は、宇宙はそのようにできている。loveが「違っているが受け入れる」を意味するならば、多様性そのものが愛であり、宇宙は愛そのものではないか。All my relationの世界だ。

話は、キリストが磔刑に処されたことへと進む。

BC33、キリストが十字架にかかり、その血が流されたことにより、地球のオーラが変ったという。地球という円の上に立っていた十字が、地球の内に入り込み、丸十字になったと小林さんは語られた。地球にキリスト意識が入り込んだ、というわけだ。それゆえに、丸十字というシンボルは、この地球上で最も普遍的なシンボルなのだと、説明してくださった。

確かに、丸十字、メディシンウィール、四方向と天地、この地球上をあまねく照らし、いのちを与え、育むのは偉大なる太陽である。太陽が夏の家に辿り着く夏至、太陽が冬の家を離れて、夏の家に向かって旅に出る始めの、一年でいちばん大切な日が冬至だとインディアンは考える。われらが立ち、そこを中心とすることで、四方向は定まる。フォーディレクション、丸十字、太陽シンボルは、どの地においても現れ出でる最も普遍的シンボルと言える。

宇宙と人類を包み込んでいる愛、それがキリスト。
太陽神こそがキリスト。
丸十字はそれを示している。
ゆえに、キリストは、あらゆる人間にとって認識され、
あらゆる人が神の奥義に触れることができる。
そう小林さんは語られた。

小林さんは、あまねく私たちの内に、
キリスト意識が備えられているということを伝えてくださったのか。
愛が備えられている、と教えてくださったのか。
いや、愛そのもの、とおっしゃっているのか。

ここで、スー族の聖者といわれたブラック・エルクの言葉を紹介します。

いちばん重要な、最初の平和は、人の魂のなかに生まれる。 
人間が宇宙やそのすべての力とのあいだに、つながりや一体感を見いだせたとき、その平和が生まれるのだ。
宇宙の中心にはワカンタンカが住まい、
しかもこの中心はいたるところにあって、
それはわしらひとりひとりの内部にもある、と理解したときにな。
これこそが真実の平和なのだ。
ほかの平和はすべて、この真実の似姿にすぎん。

先月10月29日1周忌を迎えたオジブエ族デニス・バンクス氏の本名は、Nuwacumug 宇宙の中心 という意味。
ずいぶん以前、分かってくれるかなあ、という表情を見せながら、デニスは私に見振りを交えながら説明してくれたことを繰し思い出す。

霊性は土地に縛られることはなく、そして、人間の自我、本性はぐるぐると地球を巡り続けているのだと、小林さんは教えてくださった。先日も愛媛の山の中で、ホピ上映の後、小さなシェアリングの輪をもったが、共通する意識を感じた。その時代、その時代に、それぞれの内に浮かび上がる意識は同じなのかもしれない。ましてや、あの山の中に、わざわざ集まってくる人たちだもの。いまのこの時代の意識に動かされているのだろうな。

さらに、小林さんのお話から、心に留まったことを書いてみます。

「様々なところに神が宿り、
 それを畏れ、敬うこと。」
畏敬の念、現代人はそれを置き去りにしてしまっているのではないか!

「継続は力なり」
1989年11月9日東西ドイツを分けたベルリンの壁が崩壊した。この時、ろうそくを灯しながら、東西ドイツの統一と平和を祈り続けた人たちがいた。そして、ある時、窓を開けたら、そこには何万もの人々がロウソクを掲げて集まっており、そして、雪崩を打つようにして、壁が崩壊したのだ、と。

このお話に、私はぐぐっときてしまった。しゃべろうとして、声が裏返りそうになっちゃった。
その壁の崩壊のひと月前まで、西ベルリンで一か月間滞在していたのだった。カリフォルニアのバークレーで、デニス・バンクス氏とSacred Run Europeの計画とその打ち合わせをし、宮田さんと私は、デニスや友人に見送られて、そのオーガナイズのためにサンフランシスコから西ベルリンに飛んできていたのだ。
あの頃の東西ドイツの重苦しさを肌で感じた経験もそうさせたと思う。しかし、それ以上に、平和な世界を実現したいと願って行動し続ける身近な人々、仲間たち、世界中の友人たちのことに想いを馳せた。何度でも何度でも立ち上がって、権力や脅し、多数の勢力に屈せず、行動し続ける人たちが頭をよぎった。ホピの予言を世界に発したかつてのホピ伝統派もそういう人たちであった。迫害にもめげず、声を挙げ続けた。自分たちのためだけではない、これからの世界のすべての人々のために、と。Never give up! 祈り行動し続けなさい。デニスのメッセージも思い起こされる。

1989年7月末、バークレーの友人宅で、セイクレッド・ラン、ヨーロッパのミーティングをした時のもの。
左からピート・マーカス、デニス・バンクス、宮田雪

それでは最後に、既得権益を行使し、ランド・アンド・ライフ発行の『ホピの予言のエッセンス』から、最後の部分を書き起こしたい。これもまたそれなりに長いけど、きっと読んでよかった、と思うと思う。


わたしたちが立ち向かわなければならない力は、それぞれが恐るべきものだ、しかし、立ち向かわなければ、残るただひとつの道は滅亡だけである。今もって人間の造り出したシステムが何としても正されようとしないのは、そのシステムそのものが一人の人間の意志を他の者に押し付けることで成り立っているためであり、問題の源もまさにここにある。もし、人々が自らを、さらにその指導者たちを正そうとするなら、その両者の間の広い隔たりが消えなくてはならない。それを成し遂げるためには、人間(ひと)はひたすら本当のこと、ただそのことのみに向かう氣の流れ(エネルギー)だけを信頼すれば良いのである。
このようなやり方は、ホピのウェイ・オブ・ライフ、ホピとして生きる道の基礎であり、死すべき運命にある人間が直面しうる最も偉大なる挑戦でもある。
この生き方を受け入れる人は少ないかもしれない。だが、ひとたびこの基盤の上に平和が確立されるならば、そして、わたしたちに初めから伝わる人生の道、この生き方を盛り立てていくことが出来るなら、人間は自らの発明の能力を賢く使うことが出来るようになるだろう。怖れ、怯えの人生ではなく、互いに励まし合うようになるはずだ。他人の犠牲の上に立って、ごく少数の者が利益を得るよりは、全員が潤うようになるだろう。
こうした、人間の個人的な関心事を遥かに超えたところで、一切の生命あるものたちにとってさえも、未だかつていちどたりとも実現されたことがないほどのおおきな幸せが訪れる。
かくしてすべての生きてあるものたちは、調和の内にいつまでも栄えるようになるのだ。


ホピだけではなく、アメリカインディアンスー族の人々の間でも携えられてきた丸十字のシンボル。太陽霊から授かった原初の教えが、この中に秘められている。私自身、もっともっと深めていきたい。そして、これからの時代を生きていくために、それぞれが必要とする言霊や叡智を分かち合いたい。それを実践していきたい。

キリスト意識、それは愛。私たちがどうであれ、太陽は私たちのいのちを育み、希望を与え、魂の光を照らし出してくれる。グレイトスピリットは大きな愛で見守り、私たちを包み込んでくださっている、それを丸十字は示しているのだ。

前段で紹介した、ホピ太陽氏族ダン・カチョンバの言葉に戻ると、人間に与えられた原初の教えは、太陽霊からのものであり、本来の宗教の源は同じだということだ。もともと祈りを同じくする兄弟姉妹だったのだね。

小林さんのお話を伺ってから1週間が経ち、私の中で変化が起こった。
あ・い、愛という言葉を、どこもつっかえることなく口に出せるようになった。

小林直生さん、ほんとうにありがとうございました。
短い準備期間でてんぱってる私に、あったかいこころと手を差し伸べ、うけいれてくださったようこさん、さゆりさん、のこちゃん、そして、奥様のまりさん、
ほんとうにありがとうございました。
小林さんと繋いでくれた、たかくん、ありがとう!また、なんか一緒にやろうよ!

みなさん、拙い文章を最後までお読みくださって、
ほんとうにありがとうございました。