ヒロシマの火

福岡県八女市星野村で灯され続けている「ヒロシマの火」を、夏至の日富士山で行われたフェニックスセレモニーに届けて、1週間が経つ。

今日は夏越の大祓。整理をするには相応しいと思いつつ、朝から、次々とすることが重なっていく。日付が変わらぬうちに、自分自身のためにも書き留めておきたい。そして、きっと、何があったの?と待ってくれているだろうホピフレンドたちともシェアし、最高の感謝のハグをしたい!

夏至の日、富士山でのフェニックスセレモニーの事は知らされてはいたけれど、なかなか意識をそちらに向けることができないままだった。それが、夏至の二週間前になって、セレモニーの発願をされたアイルさんに様子を伺うために、電話をしたのだった。

Reiko:
「アイルちゃん、こんにちは~。北海道でもお祈りされていたね。動画を見させて頂いたら、何か半透明のエネルギーが揺らいで見えていたよ~。
それで、今回のフェニックスセレモニーってどんな流れが来ているの?」

Iru:
「レイコさん、ロイがこの二十数年世界各地で世界の平和をお祈りしてきたセレモニーの灰を、ヒョウタンに詰めてきたのよ。そのヒョウタンが灰で一杯になったの。それを富士山でお焚き上げしなさいって、メッセージを受けたの。
その火の中からフェニックスが飛び立つの。西と東のカルマが解消して、統合される時がきたのよ!」

セドナ在住のアイルさんには、私がアリゾナへ行くたびに泊めていただき、友情を育ててきた。華やかな印象を与える彼女だが、素直でしなやかな強さのある彼女が私は好きだ。彼女が世界各地で開いてきたセレモニーには、これまで直接関わらせていただいたことがなく、ようやくセレモニーで交われるのかもしれないという想いが、私にはあった。

彼女の話を聴きながら、ロイと関わってきたさまざまなシーンが、それこそ走馬灯のように浮かび、これは……と思った瞬間、

Reiko:
「原爆の火が必要なんじゃないの?!きっと必要だと思う。それは、私に運ばせて、、、それは私の役目だと思う……私しかいないよ!」

「灰のびっしり詰まったヒョウタン」とは、ホピの言い伝えにあり、精神的指導者たちが、広島と長崎に投下された原爆と理解した。そして、教えに従い、人類がこれまでの世界のように、この第4番目の世界をも滅ぼしかねない時代に突入したサインと受け取ったのだった。

そして、ホピの人類への警告と、いかに地球の上でいきるのか、そのメッセージを発信し、宮田は1978年にメッセンジャー、トーマス・バニヤッカと出会い、映画を作ることとなった。その背景には法華経があり、非暴力による世界平和を祈念された仏教僧故藤井日達上人の導きがある。

私はその映画『ホピの予言』を、完成後32年経った今も、上映し続けいる。そして、その道程で、ロイやアイルさんと出会ってきた。ロイがホピを去って以来、何を目的に歩んできたのか、アイルさんの話を5分ほど聞いて、あ、っと思う間に、ロイの長い旅の全容が捉えられた氣がした。

さて、今年5月、奈良での上映会に呼ばれ、母の里でお世話になった時のこと。

96歳になる叔母が、海軍の叔父に嫁ぎ、新婚時代、広島中心部から南へ13kmの江田島において、1945年8月6日8時15分原爆投下直後のキノコ雲を目撃していたことを、叔母からはじめて聞かされた。

部屋の中で障子を閉めてお裁縫をしていたところ、眼に刺さるような光を感じ、思わず障子を開けると、それは美しく、虹色に輝く大きな雲が立ち上がっていた、と叔母は身振りで表した。叔母が……大好きな叔母がキノコ雲を見ていた……しかも、最初の数秒しか現れないと言われる虹色のキノコ雲を見ていたのだった。あまりのことに言葉が出なかった。

さらに、母の実家を継いだ従兄弟が、火薬を使う作品作りで世界的に有名な現代アーティスト蔡國強さんの製作ディレクターとして、広島原爆ドームで黒い花火を上げたり、ネバダでキノコ雲を上げるパフォーマンスに関わっていたことも、同時に分かり、深いため息をついた。

昨年夏、ヨーロッパの旅を1週間ほどご一緒した4人の女性、サンシスターズのりかさんからは、ヒロシマの火を扱うピースアクションに、さかんにお誘いを受けながら、どうしてもその氣になれなかったのもその頃だった。私にとっての火の理解、リアリティとは、どうしてもそぐわぬものを感じていたから。

マの火に触れられると内心で思い、それは近く訪れるという予感がしていた。

アイルちゃんの話を聞いて、迷いはなかった。
その役目は私しかいない。
ヒロシマの火を、何度も扱ってきた友人のりかさんも傍にいてくれる……。

ロイ・リトルサンこと、ロイ・スティーブンスとの初めての出会いは、1992年頃ではなかったか。雪さん(亡くなった連れ合いで『ホピの予言』監督宮田雪)が1995年3月3日に脳内出血で倒れるまで計14号発行したランド・アンド・ライフのニュースレター~ホピからのメッセージ~No9(1993年4月1日発行号)に、はじめてロイと彼を養子にした故タイデス・クムユワプテワ翁の記述が登場する。ロイは当時54歳、タイデス翁はすでに94歳のご高齢であった。

タイデス翁は、ホピのサードメサ・ホテビラ村の蛇氏族の指導者だった。村で最後のスネーククラン(蛇氏族)の司祭だったはずだ。ホテビラ村では、すでにスネークダンスは絶えている。彼はホピに伝えられてきた「浄化の歌」を歌える長老でもあった。その歌は「その時」が来るまで歌ってはならない歌だった。

翁は、水道も電気もない伝統の暮らしを望んだが、さまざまな事情もあってそれが村の中では叶わなかった。しかし、インドネシア人のロイとの出会いがあり、ロイはタイデスの娘の理解も得て、サードメサを望み、広がるタイデスのトウモロコシ畑に、簡素な小屋を建て、トウモロコシ畑とタイデスのお世話をしていた。ロイはマクロビオティックの教師でもあったため、食事療法によって、タイデスの健康をも支えていた。

その頃、宮田雪は『ホピの予言』の第二部ともなる映画の製作中だった。まだ幼かった娘を連れて、私たち3人は、度々このタイデスの畑でテントを張って逗留した。

第二部の仮のタイトルは『偉大なる浄化の日』。1989年からその撮影は始まっており、当初はダライ・ラマ法王とホピ伝統派との出会いに焦点を絞っていた。ホピ伝統派は、ホピとチベットは北半球の表と裏に位置するとみなし、浄化の時に重要な働きをするとされてきた「赤い衣を着た人たち」「海に名前の由来を持つもの」として、チベットとダライ・ラマ法王に注目をしていた。ダライ・ラマとは「海の智慧の師」という意味だ。

さて、しかし、ダライ・ラマ法王に関しては、なかなか良い流れが来なかった。そのうち、ホテビラ村創設者ユキウマの甥にあたる火氏族の石板の保持者であったマーチン・ゲスリスオマ氏と出会い、それがタイデス翁とロイとの出会いに繋がっていったと記憶している。

宮田は映画の主題を、アメリカ合衆国というバハナ(異邦人)からの介入と支配に対して、徹底的な非暴力、不服従を貫こうとしたホピ伝統派へと、その視点を移していった。伝統を貫くためにホピの村の中でも、最も新しく、1907年に創設されたホテビラ村は「伝統派最後の砦」ともいわれた村で、創設者はユキウマ。度重なるアメリカ政府の圧力にも、首を縦に振らなかった屈強なるスピリットの持ち主だった。自分たちが首を縦に振れば、世界が物質文明という大波にすっかり呑み込まれてしまうことを、伝統派エルダーたちは知っていたのだ。

ユキウマの甥で太陽氏族ダン・カチョンバ、グランドファーザー、デイヴィット・マニャンギ、蛇氏族タイデス・クムユワプテワ、リトルダンこと、ダン・エベヘマ、ユキウマの甥で火氏族マーチン・ゲスリスウマ、彼らに受け継がれたきたホピ伝統派のスピリットとともに、石板、浄化の日の予言を伝えるという意図で、宮田は撮影を進めていった。

ロイは血はホピではなかったが、タイデス翁と自身の信念に従い、まさに、伝統派ホピのごとく、徹底非暴力、不服従をタイデスの畑にあって貫こうとし、ホピ部族政府ににらまれることになった。部族政府とは、主なインディアン部族に対して、アメリカ内務省が管轄政府として設置した機関で、アメリカの傀儡政権として、伝統派は受け入れなかったのだ。

かくして、タイデス亡き後、ロイはホピの地を去らざるを得ない状況へと迫られていく。

そのうち、宮田は95年3月3日50歳の誕生日に、カリフォルニアにて脳内出血で倒れた。第二部の映画の編集に入る直前だった。ブラックマジックによって倒された、とホピのメディスンマン、まだ会ったことのないラコタのメディスンマンに、ほぼ同じ内容のことを告げられた。何度かシュートされ、最後の一矢が大した矢だったと、離れた場所にもかかわらず、その見たてはほぼ同じだった。インディアンの友人たちも、そのようなことが宮田の上に起こったと、当然のように受け取っていたことを知ったのは、7年も経ってからのこと。

なんとかいのちは取り留めたが、その後、2011年2月14日に逝くまで、一言も言葉を発せず、寝返りも、自分で食事を摂ることもできず、雪さんは16年間を過ごしている。私も看護と介護が日常の日々を、いつ終わるとも知れず過ごした。

ロイとの再会は、宮田が鎌倉に入院している時だった。1997年夏至の富士山で、亡くなったタイデス翁の片方のモカシン(一枚革で足を包むように作られた靴)を納めた後、病院に訪ねて来てくれたのだった。ロイにとって、宮田は同志だった。ホピに血を受け継がない者が、ホピの教えを伝えようとしてきた同胞であった。ロイは私に対しても、そのような同胞としての敬意を払ってきてくれたと、彼の眼差しから感じている。

宮田の三回忌にも、ロイはアイルさんやクミさん、黒川繁子さんと共に参列してくださった。奇しくも、今年2月4日57歳で旅だった海老原美恵ちゃんも、葬儀に続いて、三回忌も参列してくださり、「未来への道」を1曲歌って下さっている。彼女は、WPPD夏至の日富士山での世界平和と祈りの日2004年の実行委員長を務めた人だ。岡野さんたちが彼女を説得して、そのセレモニーの中心を担ってくれるよう頼んだと、今回、はじめて岡野さんからお聴きした。

先日の夏至の日のサンライズセレモニーは、WPPD2004年以後、毎年富士の麓で続けられてきた祈りのサークルに合して執り行われ、原初の火として熾された火に、前日21日執り行われたマヤのファイアーセレモニーの灰、ロイの祈りのヒョウタンの灰をお焚きあげした灰がくべられ、さらにヒロシマの火も合わさった。その祭壇には、海老原美恵ちゃんの大きく笑った嬉しそうな遺影があった。

この日を迎えるにあたり、短期間の間に、私なりにカードは切ってはいた。ヒロシマの火だけではなく、原初の火も必要なのでは、と感じていたから。WPPD2004年以来、毎年夏至に富士山で火熾ししてきた琢ちゃんと話をし、WPPD2004のオーガナイザーの一人であり、ロイから今回参加の指名を受けた岡野弘幹さんにもそのことを伝えた。
その上で、私たち3人の暗黙の了解は、起こることに任せましょう、だった。フェニックスセレモニーの主催、運営はアイルさんたちであり、そのことを、それぞれ私たちはリスペクトする気持ちが働いていたのだ。

それが、打ち合わせしていても成らないほど、ぴた、ぴたっと事がはまり、富士を真正面にしたサンライズセレモニーに合流できたのだ!

ラコタ族のチーフ、アーボル・ルッキング・ホースによるリードのうちに、2004年WPPDでの始まりに執り行われたスウェットロッジセレモニーの場所に、15年ぶりで巡り帰るようなお膳立てと相成った。ロイの祈りのヒョウタンには、WPPD2004でヒロシマの火を捧げた灰も含まれているという。岡野さんがWPPD2004の直後、グラストンベリーに飛び、そこで偶然にもロイと出会い、その祈りの灰をロイに手渡していたから。

こんな符号って、あるだろうか。人智をはるかに超えている。

この上もなく美しく厳かな雲が富士山に流れ、美しい作法に則ったパーフェクトな聖なる祈りの輪であった。

宇宙は、この時を26万年間待っていた。
ロイはその輪の中で、そう私たちに語ってくれた。


お知らせ

8月4日~6日広島で行われる「平和・音楽・アート」に参加するため、ホピのアーティスト2人と和太鼓のコラボHOPI TO WAが千羽鶴の旅ツアーします。
ランド・アンド・ライフ主催は8月11日新横浜です!
ホピフレンドたち、全員集合してね!!