特集・〈いのち〉の声をきく

未来へ続く道

「ホピの予言」に私を導いたもの   宮田雪

映画『ホピの予言』の監督 宮田雪が、季刊誌『80年代』1987年に寄稿した文章です。

なぜホピと出会い、映画を製作することになったかのいきさつが、大変興味深く紹介されています。

(一)

  十年前、わたしと家族は東京の奥多摩の千九百メートルほどの山の中腹にある農家を改造した古いお寺に住んでいた。大寺山というその山の頂きにはお釈迦さまの舎利をまつった御仏舎利塔があり、故藤井日達上人を導師とする日本山妙法寺の僧伽の人たちが何年もかかり資材を人力によって山頂まで運び、それは湧現したものだったが、まだ参拝用の道が出来ておらず、わたしはひとりのお坊さんとわずか二、三人の村の人とその道を作っていたのだ。

 突然、山に入ってしまったわたしを心配して訪ねてくれた友人のなかには、なぜ、生活を放棄してまでそんな道づくりに没頭するのか、とあきれ顔をするものもいた。端から見れば無理もない話だった。長男や長女はまだ幼く毎日小学校や保育園に通うためには急な山道を昇り降りしなければならなかったし、道を作る仕事は純粋な奉仕でなんの報酬が得られるわけではなかった。だが、それより数年前、インドを旅し、それ以来わたしは自分の内から聞こえてくるいのちの声としかいいようのないものに耳を傾け始め、藤井日達上人という、わたしの知り得る限り、近世の仏教者の中で最も厳しい修業を積まれお釈迦さまの教えを身を持って体現化し、日蓮上人の予言をその歩みで実現成就し、菩薩行をされた方に出会ったことで、その声が仏さまからの声であることを知らされたのだった。以来、わたしは法華経を信仰し、南無妙法蓮華経というお題目を唱え、 その教えに導かれてきたのだが、結果として、それが御仏舎利塔への道を作ることになったのだ。いや、それより他に歩くべき道そのものがない状態に立たされてしまったというのが正直な気持ちだったのかもしれない。

 ともかくも、道の上を歩き始めたまだ赤ん坊のわたしに仏さまがお慈悲として、道を作るという奉仕を与えられることで、他ならないわたし自身の心に尊い仏さまの世界へ通じる場を与えて下さったのだと感謝する他はなかった。

 一年が過ぎて、山頂からの道が丁度中腹あたりまで完成しかかった春先だったと思う。ひとりのお弟子のお坊さんが真っ黒に日焼けした顔でわたしを訪ねてきた。前の年、アメリカでは「コンチネンタル・ウォーク」という軍縮と社会正義のための大陸横断平和行進が行なわれ、彼はアメリカの人たちとロスアンゼルスからワシントンまでお題目を唱えて歩き日本に帰ってきたばかりだった。

「アメリカを歩いた人たちが今年は広島への行進を計画しているから一緒に歩いて、その人たちのお世話をしてくれないだろうか」

 ヒロシマ。あの原爆を投下された同じ年にこの世に生まれながら、わたしがヒロシマを自覚したのは正直言ってそのときが始めてだった。わたしの日々作っていた道は御仏舎利塔を礼拝するための道だったが、その道が、出生の原点につながっているのかもしれないという予感にわたしの心は大きく揺れ動いた。そして、仏さまの大きな力ともいうべきものに引かれてとしかいいようのないものに導かれるままに、わたしはアメリカからやってきた陽気なヒッピーや信仰厚いクエカー教徒たちと一緒にヒロシマに向かってその道を歩き始めることになった。

 その道は三十数年前、西本あつし上人というやはり日本山のひとりのお坊さんが始めて歩かれ、核兵器の廃絶を願う人々がそれに続き、それ以後、無数の平和を願う人々の折りにより続いてきたものだった。歩いていくうちに、わたしは沿道の人たちに礼拝していくことで、どんな人々も心のなかに尊い仏さまというものがあり、それを自分の内と外に呼び覚ますために仏さまがわたしを歩かせて下さっているのだということを知らされていった。

 三ヶ月後、ヒロシマに着いたとき、その道の上にひとりのアメリカインディアンが加わった。彼は、リー・ブライトマンといいスー族という名で知られるダコタ出身のインディアン運動のリーダーのひとりで、日達上人がお弟子の峰松上人という人を通してアメリカから招待したのだった。この峰松上人がなぜリーをヒロシマに連れてきたのかと言えば、彼もまた、コンチネンタル・ウォークを歩き、その後、全米のインディアン居留地をお題目を唱えインディアンの平和を祈って行脚し、仏さまの導きのなかでリーと出会い、そして、仏教徒の平和への祈りを理解してもらうためだった。だがヒロシマにインディアンがいることがどんな意味を持っているのか、わたしにもアメリカの人たちにもその真意が理解出来なかった。それからわずか半年後に、わたしや行進に参加した大勢の仲間たちを包み込む大きな渦が準備されていたとは誰ひとり想像さえ出来なかったのである。

 だが、ヒロシマの地での日達上人が彼、リー・ブライトマンに語った言葉がわたしの心に深い響きとなって残り、それは、ヒロシマから再び御仏舎利塔への道作りの生活に戻ってからもなお、不思議な予感と昂ぶりを持ちながらわたしのなかに波紋のように広がっていった。

 「宗教的信念、ここから平和を求めて立ち、足場を作ります。そのためにあなたを招待したのですが、これは小さなこととは思っていません。将来のアメリカの革命、非暴力革命の第一歩の導火線にと思って招待したのです。世界革命の先端、アメリカの平和革命のその中心に、アメリカインディアンに立って頂かなくてはならない」

 非暴力。日達上人にとって、この言葉は仏教の不殺生戒、すなわちあらゆるいのちあるものを敬うことの実践であった。上人は若き日にインドでアヒンサ(非暴力)を実践することによってイギリスの支配から独立を勝ち取ろうとするマハトマ・ガンディ翁と出会い、上人のうちわ太鼓とガンディ翁のアヒンサの象徴であった糸車(チャルカ)とのこの出会いは、平和を希求する力の源泉となり宗教の違いを越えたものとしてひとつに結ばれ、インドの独立の大きな力となったのだ。その上人の非暴力の精神がアメリカインディアンの心に確実に伝わっていった。

 

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